「丑」

(透明水彩、アクリガッシュ)

 この絵に限らず、私は絵を描くとき、大抵事典やら辞典やらを引いて簡単に調べるのですが、これが結構面白かったりします。
 今回の「牛」についても
 <闘牛競技も本来は地域における豊作の豊凶を占う意味があった。>だとか、
 <干支における丑の年と牛とが結合したのは縁起を説く宗教者と庶民の信仰が結合した結果であるが、年のみでなく5月や8月の丑の日などに家畜の安全を祈願して潮を浴びせ、水浴をさせる風もある。これはもともと人間のみそぎのように災厄を除こうとする民間信仰の強い要求が基底にあったからである。>『大百科事典』(平凡社、1984)だとか。

 家畜は財産でもあるわけだし、稲作地域ではとりわけ牛は大事にされたんだろうなぁと思います。(しかしそうした反面、牛車などのように「物を運ぶ」という事は牛の苦役として捉えられたようで、「悪い事をしたら牛に生まれ変わって酷い目に遭う」と説教などに使われたそうです。)
 現在では牛といったら労働力(役牛)よりも乳牛、肉牛が一般的で、肉牛は食べちゃうから大事にされていないのか、と言うとそんな事は無いと思うんです。

 母方の実家では今はもう行っていませんが、昔は肉牛を育てていて、ある時、母が慰安を兼ねて祖母を誘い旅行をしようとした事がありました。そうしたら、「今、体の弱い仔牛がいるから、心配で家を空けられない」との事。電話でそれを聞いた母に、当時小学生だった私が尋ねた言葉が「どうして殺しちゃう牛なのに、心配なの?」というものでした。
 困ったような、迷うような、苦いものを口にするような顔で母が返した言葉が「……殺しちゃうけど、財産、なの」というもの。

 役牛であろうと、乳牛であろうと、肉牛であろうと、財産であり、大事なものであることには、変わらないと思うんですよね。需要があるから供給があるわけで、実際肉牛って重要な栄養源なわけで……美味しく調理して、美味しく頂いて、今度は自分たちの血や肉にしてやるのがイイんじゃないかなーとか、そんな事を思います。